宗谷岬

※写真:Wikipedia「宗谷岬」より

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 ひたすらに身勝手な夢を見ては、なにかを犠牲にしていた、あのころの僕。
 その傷痕を抉るたびに、いまでも鈍い痛みが走る。
 犠牲にしてきたものが多すぎて、そのすべてを把握しきれているわけではない。
 たとえば、きみという存在。
 間違いなく喪ったはずのそれを思うたび、こころは震え、痛みだす。
 真夜中まで抱きあったまま、キスを幾度となく交わしていた、最初で最後の夜のこと。
 すべては終わったはずであるのに、まだ忘れられない、愚かすぎる僕がいる。
 犠牲にしたというのに、記憶に焼きついたそれは、間違いなく痛い。
 北の海辺を目指して走るバスの中、僕はそんな記憶を反芻して、ひとり虚しく感じていた。
 このバスに乗ったのも、単なる気まぐれからだった。
 時折ではあるが、僕は自分のこころの傷痕を、自らの手で抉るような真似を繰り返していた。
 夏が終わろうとしているいま、なにもかもが静かで、音を立てることをしようとはしない。
 触れあえば、そのたびに別れがつらくなることくらいは、わかっていたはずだ。
 それなのに僕は、きみを求めてしまったのだから。
 後悔しても遅いということくらい、痛いほどに感じていたし、知っている。
 あの夜にきみが僕にくれた手紙の封を、いまさらになって開き、中身を確かめた。

『キミが私のことを見てくれてなんかいないって、私は知っていたつもりだよ。
 だけど、それでもキミは、強がりで意地っ張りなままの、私の大好きなキミだから。
 つらくなる時があったりしたら、いつでもまた逢いに来てね。
 ずっと待っているから、いつかきっと、迎えに来てね。
 私は、その日が来るまで待っているから』

 ……なにもかも見透かされているかのような、不思議な気分になった。
 言葉のひとつひとつが、優しい癖に、なんだか痛い。
 これもまた、僕のこころを抉ってゆくような、新しい傷の記憶として刻まれるのだろうか。
 曖昧な思考はこころを蝕み、じわじわと苛んでゆくような、鈍い痛みを与えてくる。
 もう乗り換えることは不可能になったという現実を、確かに告げてくる。
 あてもなく張っていた意地の形が、徐々に崩れてゆくかのような、安息の形。
 手紙を読んでしまったからなのだろうか、少し疲れた気分にさせられる。
 安らいでいるのに、痛い。
 なにもかもがあやふやで曖昧な癖に、痛みだけがはっきりしている、いまの時間。
 痛すぎる、だけど愛しい、安息という名前の曖昧。
 答えを待つこの手は、どこに向けて伸ばせばいいのだろうか。
 北の海辺は、まだ遠い。
 バスのシートに深く寄りかかって、僕は身体を眠りに預けることにした。
 目蓋が重くなる――

 ほんのわずかに、記憶が揺れてゆく。
 思い出すことを躊躇いたくなるような記憶が、目の前をよぎってゆく。

 きみと僕が出逢ったのは、高校生活最初の一年の半分が過ぎようとしていた、夏の日のことだった。
 その日、僕はいまそうしているように、バスのシートに身を蹲らせたまま、静かにまどろんでいたかと記憶している。
 あのころの僕はすでに、なにもかもを億劫に感じてしまうような、いまの僕とほとんど同じ性質を持ちあわせていたように思う。
 流されるまま、適当な感じで生きてゆけるとしたならば、僕は間違いなくそんな道を選びとっていたことだろう。
 バスの揺れに身を委ねながら、僕はひとり静かに、まどろみを繰り返す。
 ずっとこのままで、なにも感じないまま、たゆたっていられたなら。
 それだけでいいとさえ、僕はぼんやりと思っていたのだから、どうしようもない。
 あたりを包んでいる空気は、中途半端にぬるい。
 僕のこころをそのまま写したかのような、その空気感が、なんとなく好きだった。
 なにもかもが曖昧で、どうしてもなにかを決めることができないまま、揺れてゆくこころ。
 そんな状態にあった僕は、はっきりとした未来を見つめることをしないで、流されていた。
 流れ着く先がどこになるのかなど、見当はもちろんついていない。
 漂い、たゆたい、流され、静かに時を刻んでゆけたなら、それだけでよかった。
 このバスが永遠に止まらないまま、どこまでも流れてゆくのでも、別に構いはしない。
 僕には、流されるのがお似あいなのだろうから。
 しかしながら、バスはいつか止まる。
 曖昧なままの時間は、いずれ終わるのだ。
 そのさだめを知りながらも、僕はバスのシートに身を預け、流され、沈む。
 誰にも愛されず、誰にも縛られず、適当なままでたゆたってゆくような時間を、僕は大切に思っていたかったのだ。

 それゆえに、きみに出逢ったのは、数奇な偶然が織り成したものだと、いまではそう思う。

 バスの揺れが次第に小さくなり、やがてバスは小さな停留所へと止まった。
 僕はぼんやりと目を覚ます。
 バスの中には、僕を除いて誰も乗客がいなくなっていた。
 夕陽が沈みかけており、バスの中にも蜂蜜色に輝く西日が射し込んでいる。
 妙に、美しかった。
 それはまるで、天国へと向かうバスの中に乗っているかのようだったから。
 そんな静かな空気の中で、ひとりの女の子が、新たにバスへと乗ってくる。
 僕は一瞬、目を奪われていたのだろうと、いまならそう思う。
 シュシュでポニーテールに結われた長い髪が、さらさらと揺れている。
 陶器のように白い肌に、さくらんぼのそれのように、ほんのりと赤みが差している。
 整った顔立ちの中、頬を染めた色とよく似た、やわらかそうな唇が、なにも言葉を発することもないまま佇んでいる。
 僕と同じ高校の夏服を纏った、線の細い華奢な身体つき。
 西日を受けて蜂蜜色に輝いたヒカリが、その髪も蜂蜜色に染め、白い肌と相まって、この世のものとは思えないコントラストを描きだしていた。
 とてもきれいな、天使とはこういうひとのことをいうのではないかと思えるような、美しすぎるその姿に、僕の目は釘づけになっていた。
 女の子はきょろきょろとバスの中を見回したかと思うと、僕の姿を見つけ、こちらへと近づいてくる。
 そしてそのまま、僕のすぐ隣の席へと、その細い腰を下ろした。
 それと時を同じくして、バスが静かに揺れて、再び走りだす。
 どこへ向かうのかもわからない、静かなバスの席。
 僕はシートに蹲ったままで、ほんの時折ではあったけれど、女の子を横目で見つめていた。
 道路の向こう側から、街中へ向かう車の列が、横切ってはすぐに離れてゆく。
 対して、僕と女の子だけを乗せたバスは、ぽつんと逆方向へ進んでいる。
 僕は再び目を閉じた。
 しかし、その目蓋の裏側に、先ほどの女の子が映って、消えようとしてくれない。
 その佇まいが、あまりにも美しすぎて。
 静かなバスの中に、僕と女の子以外にはひとがいないということを、意識させてきて。
 北の海辺へと向かい、バスは静かに走り、流され続けてゆく。
 それだけであったならば、僕は女の子――きみ――と話を交わすこともないままで、無為に時間を過ごしていた、そのはずだったのだ。

 僕が再びまどろみに身を委ね、うとうととしていた、そんな時だった。
「……あの」
 微かな声に驚いて、僕は目を覚ました。
 見ると、あの女の子が、僕のことをじっと見つめていた。
 さくらんぼ色の唇が静かに動いて、やわらかな声を紡ぎだす。
「……もう終点みたいなんだけれど、降りないの?」
「……え?」
 見ると、確かにバスは終点の停留所へと辿り着いており、あたりは西日も落ちてすっかり暗くなっていた。
 だいぶ長い時間、僕はまどろんでいたようだ。
「……降りますよ」
 僕はそれだけを女の子に告げて動きだす。
 所定の料金を運転手横のボックスに放り込み、僕はバスを降りた。
 女の子もパスケースのようなものを運転手に見せ、すぐにバスから降りてくる。
 やがて、バスは静かに走り去っていった。
 バス停には、僕と女の子だけが残される形になった。
 あたりに映る景色は、北の海辺だ。
 波が絶えず打ち寄せては、静かに海岸線を揺らし、すぐに海へと戻ってゆく。
 少し遠くに見える岬には、小さな灯台が明かりを灯し、夜の海を微かに照らしていた。
 そんな風景の中で、僕と女の子はふたり、やはり静かなままで、バス停に佇んでいた。
 どれほどの時間が経っただろうか。
 女の子はバス停のベンチに座り込むと、再び口を開いてくる。
「キミもこのあたりの子?」
 それが僕に向けて告げられている言葉だと理解するのに、しばらくの時間を要した。
 僕はその言葉に対し、
「……いいえ、海を見に来ただけです」
 そんな嘘をついていた。
 嘘、とはいえど、海を見に来たということは、実は本当のことだ。
 僕はこの海岸線から離れた、山の手の方に住んでいる。
 ゆえに、たまにではあったけれど、海を無性に見たくなることがあったのだ。
 女の子は僕の言葉に納得したのだろうか、
「ふうん……」
 それだけを呟くと、またしばらくの間、黙っていた。
 僕はもういちど海を見つめる。
 暗い海は、なにもかも呑み込んでしまいそうで、静かな強かさを感じさせてくる。
 そんな風景が、僕は好きだった。
 その風景を見るために、僕はこうしてこの場所を訪れたのだ。
 僕が海をぼんやり見つめていた、そんな時だった。

「……さっきの台詞、嘘だね」

 不意に、女の子は僕に向けて、そんな言葉を放ち、続けて告げてきた。
「キミの目は、海を見たいってだけの、そんなひとの目じゃないよ」
 僕の、目が……?
「キミの目は、いまにも死んじゃいそうなひとのそれに似ている……本当の理由、私に話してみる気は、ないかな?」
 ……女の子には、なにもかもお見通しのようだった。
 僕は溜め息をひとつついて、海から女の子へと視線を移す。
 女の子は、西日の中で見たのとはまた違った、落ち着いた雰囲気を漂わせながら、僕を静かに見つめ続けていた。
 僕はそんな女の子の目を見つめられないまま、目を逸らしたままで、答える。

「……よく、わかったね……僕は、本当は死ぬためにここに来たんだ……」

 初めて話をするひとに対し、重たすぎるかもしれない台詞だったとは、思った。
 だけど、すべてを見抜かれている以上、嘘をつく必要がないことは事実だった。
「どう話せばいいのか、よくわからないけれど……僕、両親がいないんだよ」
「……!」
 女の子の目が、驚いたように見開かれた。
 その大きな瞳に見つめられ、少しだけ戸惑いを覚えながら、それでも見つめ返しはしないままで、僕は話す。
「しばらく前に、海で事故に遭ってね……船に乗っていたんだけど、その船が沈んで……死体すらも、僕の所に帰ってこなかったんだよ……」
「……」
 女の子は押し黙ったまま、僕の話を聞いてくれている。
「だから、どうせ死ぬんだったら、同じように海で死ねたらいいなって……そう思って、ここに来たんだ……ここの海は、僕が知っている中で、いちばんきれいな海だから」
 偽りのない、本当の事情というものを、僕はさらっと口にしていた。
 両親は海に消えた。
 僕だけが、いまでもこうしてのうのうと生き続けている。
 そんな自分に、嫌気が差したのだ。
 いっそのこと、両親とまったく同じようにして、海に還れたらと思うくらいに。
 僕のこぼした言葉たちが、目の前にいる女の子へと届かないことくらいは、知っていたつもりだった。
 それでも、話さないではいられなかったのだ。
 僕の嘘を看破してきた、たったひとりだけの存在が、女の子――きみだったから。
 そんな僕に対し、きみは静かに、笑顔を見せてくれたのだった。
「わかる気がする……キミと同じ立場だったら、きっと私も、そうしていたかもしれないからね……キミの気持ちは、なんとなくだけど、わかってあげられる気がするよ」
 そしてきみは、僕に向かって……真正面から、抱きついてきた。
 やわらかい胸の感触が、制服越しに僕へと伝わってくる。
 なぜ、きみがそんな行動をとったのか、僕にはわからなかった。
 しかしながら、きみは僕に向けて、大切な言葉をくれた。

「……でもね、キミは生きなきゃいけないよ……キミはまだ生きていられるから……」

 その言葉に、少しだけこころが揺らいだような気がしたが、気のせいだと思った。
 僕は、両親を喪って以来、まったく泣いたことがなかったのだから。
 それゆえに、気のせいだと思い込んでしまったのだ。
 しかし、それを差し引いたにしても、きみの言葉には重たさがあった。
 この重たさの正体は、なんなのだろうか?
「……きみも、まだ元気そうに見えるけれど……どうかしたの?」
 僕は、不意にその問いを口にしてしまっていた。
 するときみは、涙の一滴もこぼさずに、それどころか笑顔を浮かべつつ、僕へ告げたのだ。
「ひと言でいうのは、むずかしいけれど……病気、かな……保ってあと一ヶ月くらいだって、さっきお医者さんにそう言われて……だからまだ、はっきりとは受け止められていないかな」
 ……だからなのか。
「それで、僕が死のうとしていることを、見抜けたんだ……似ている所が、少しだけでもあったから」
 それでも僕は、きみの瞳を見つめることができなかった。
 きみを見つめてしまったら、こころがばらばらになりそうな気がしたから。
 身勝手な理由だとはわかっていたけれど、無理だった。
 そんな僕に、きみは淡々と言葉を連ねてくる。
 無理をして淡々とした雰囲気を作ろうとしているのが、丸わかりなくらいに、淡々と。
「……無茶苦茶な理由だって、わかっているつもりだけどね……それでもキミは、生きるべきなんだと、私は思う……キミはまだ、生きていられる……私みたいに、もう時間もなにも残されていないわけじゃないから……だから、生きるべきだよ」
 淡々としている癖に、妙に胸へ響いてくるその言葉たちは、痛かった。
 まるで、意地を張っている僕が、悪いことをしてしまっているかのように、響く。
 それなのに、感情はさっぱり揺れようとはしてくれない。
 痛いはずなのに、まったくこころが動こうとしない……!
「……ねえ、私の目を見てよ」
 不意にきみは、そんなことを僕へ告げてくる。
 だけど、僕はその瞳を見つめ返すことができなかった。
 いまその瞳を見てしまったら、もうすべてが壊れてしまうように思ったから。
 死にたいというこころが揺らいで軋んで、果ててしまうように思ってしまったから。
「……やっぱり、ダメなんだね……キミはそうやって、強がって、意地を張りながら生きてゆくことになるんだね……」
 そういうと、きみは不意に僕から離れる。
 暗がりの中で、荷物から小さな便箋と封筒を取りだし、便箋になにか短い文を綴る。
 それを封筒に収めると、僕の手へと握らせてきた。
「本当につらくなる時が来たら、これを読んでほしいの……私がキミに残せる、たぶん最後のメッセージになるだろうから……いつかきっと、この手紙を思い出して……」

 そしてきみは、僕の顔へと自分の顔を寄せ……唇を重ねてきた。

 一瞬のできごとだったので、僕の反応は遅れた。
「約束の証」
 きみはそう言って、また笑ってくれた。
 その時になって初めて、僕はきみの瞳を見つめることができた。
 壊れてしまいそうな雰囲気を持っていたのは、僕だけじゃないということを思い知らされるかのような、脆く崩れそうな笑顔。
 曖昧な言葉をかけてしまったならば、簡単に壊れてしまいそうな、きみの笑顔。
 だから、僕はあの瞬間ばかりは、きみへと向けて、こころからのまっすぐな言葉を、口にすることができていたのかもしれない。
 僕の口から、こころが、言葉が、こぼれて落ちてゆく。

「……大丈夫、だよ……きっと大丈夫……きみはきっと、生きられるから……無責任だってことくらい、わかっているけれど……僕が大丈夫なら、たぶんきみも大丈夫だから……きみも生きて、幸せになれるんだって、そう思うから……」

 我ながら、強がりで意地っ張りな言葉だったと、いまでも深く反省している。
 しかしながら、あの瞬間において、いちばん口にしたかった言葉が、それだった。
 僕を繋ぎ止めてくれたのが、きみだったから。
 きっときみにしても、僕の言葉で繋ぎ止められると、そう思えたから。
 強がりで意地っ張りだけど、それこそが僕であるのだと、そう感じたから。
 そんな僕に、きみは涙のひとつもこぼさないまま、温かく微笑んでくれたのだ。

「ありがとう……キミのことは、ずっとずっと忘れないよ」

 避けることのできない現実を抱えているのに、きみがどこまでも、強くまっすぐに僕へと向きあってくれたことは、絶対に忘れないし、忘れられない。
 そして、僕ときみはそのあとも、何回も何回も唇を重ねたのだ。

 ――忘れられるわけがない。
 しかしながら、その気持ちはいまになるまで、ずっと閉じ込めてきたのだ。
 それを象徴していたのが、いままで開くことをしてこなかった、あの日の手紙だった。
 手紙を開く時に、きっと僕は、あの日と同じ、意地っ張りな自分の姿を思い知ることになるのだろうと、そう思っていたのだから。
 触れあうたびに、余計に痛みは増してゆくと知っていたから、あの日の僕は、きみとのキスを拒むことをしなかった。
 少しでもこころが揺れないかと、微かに期待を孕んでいたといえば、きっと正しい答えになるのではないかと思う。
 少なくともそこについては、嘘も偽りも一切ない、本当の気持ちだった。
 僕は、きみに出逢ったことによって、揺れていたのだろう。
 いちどは死を願った感情を、翻すという行為に出てしまうほどに。
 それでも、あの日の思い出のすべては、僕の中に傷として刻まれたから。
 僕はたまに傷を抉り直すために、こうして北の海を目指し、バスに揺られる。
 もういちどきみに出逢えないかとも、幾度となく考えてはきたけれど……きみに出逢えたことは、あの日を境にして、いちどたりともなかった。

 やがて、バスの揺れが静かにおさまってゆき、僕はあの日と同じ、終点のバス停へと辿り着いた。
 バスが去ってゆくのを見つめながら、ふと思った。
 僕はきっと、本当はバスになりたかったのではないだろうか。
 終点が来るまで走り続けるバスになり、きみのことを、自分のことを、いのちの終わりという終点まで、必死に走らせながら生きたかったのではないだろうか。
 でも、僕はどうしようもないくらいに、バスになりきれなかったのだ。
 あまりにも、抱えていた感情が、曖昧すぎたから。
 きみのことを思い続けていたからこそ、僕自身をしっかり生きてこられなかったのだから、ある意味当然といえば当然のことだ。
 なにも変えることができなかった。
 なにも変わることができなかった。
 中途半端にぬるい空気が、そのことをはっきりとした形で思い知らせてくる。
 僕は、本当はどんなふうにして、生きてきたかったのだろうか。
 少なくとも、いまがそうであるように、曖昧な気持ちを抱えたまま、もやもやした気持ちの中で生きたかったのではないはずだ。
 バスになる。
 なぜ、バスになる?
 きみのためだというのなら、他にもいろいろ方法はあったはずだった。
 その中から、僕が選んだ行為は、バスになるということだ。
 あの日、きみが乗ってきたその瞬間のバスの風景が、どうしても忘れられないから。
 蜂蜜色に輝くバスの中、きみは天使のように、美しくその場にいたのだから。
 それがもう、還ることのできない過去のできごとなのだと、いまさらながらに思い知らされた気がしていた。
 小さなバス停からは、海が見える。
 あの日より少しだけ早い、まさに空気が蜂蜜色に染まる瞬間を選んで、僕はバスに揺られてこの場所へと再び辿り着いていた。
 あの日に見た海は真っ暗で、なにもかも呑み込みそうな感じがしたけれど、きょうは違う。
 海岸線があの日のバスと同じように、きれいな蜂蜜色に染まっている。
 誰もいない海は、あの日の記憶だけを残して、優しく微笑んでいるように見えた。
 後悔しても、もう遅いということは、わかっていたつもりだった。
 だけど、僕はきみのことを、ずっと記憶に留めていたかった。
 それなのに、きみはいない。
 僕の目の前には、きみはいないのだ。
 それだけを確かめて、僕は海からバス停へと視線を戻した。

 ――いつの間に来たのだろうか。
 あの日とまったく同じように、長い髪をシュシュでポニーテールにした、女性がいた。
 もともと華奢だったのが、さらに痩せてしまったようだったけれど。
 しかしながら、大きな瞳はきれいに澄み渡って、僕のことを出迎えてくれた。
 僕の求め続けていた、そのひとが。
 いまもこうして、目の前に立ってくれていることが、夢みたいに思える。
 僕たちを照らす太陽のヒカリは、あの日のバスと同じような、蜂蜜色に染まっていたから。
 あの日の再現みたいに、僕とそのひとを照らしだしてくれたから。
 このバス停でもういちど逢えたことが、嬉しくて。
 あの日の手紙を携えたままの僕は、そのひとへと微笑むことができた。
 今度こそは、強がりも意地もまったくない、まっすぐな笑顔で、臨むことができた。
 見つめてくれるそのひとは、あの日と同じように、静かに微笑んでくれる。
 また逢うことができた。
 そのことだけで、僕の胸は満たされていった。
 犠牲にしたと思い込んでいた、ほしかった答えは――きみは、確かに僕の前にいた。

<了>